哲学者が生きるという矛盾に向き合う

ソクラテス「哲学者は死を恐れない。哲学者は魂そのものになること、すなわち死ぬことの練習をしているものだから」死など怖くはない。怖いのは生なのだ。魂になった哲学者が今日も生きる、そんな

空白のノートを埋める

ノートを開いて、まっさらなページに文字を無限に埋めることが、最近できなくなったように思う。

最近はインプットが少なくなってしまって言葉が出ないのか。

それとも物事に対して語ることをなくしてしまったからか。

 

論理的な整理能力が高くないと感じることが多い。

それはやはり言語化することが少なくなってしまっているからなのか。

 

とにかく調べて書くそういう機会を増やして、コンテンツメイキングしていかないといけないかもしれない。

毎週このことについて書こうと、いくつか決めておく必要があるだろう。

最近の再生市場についてとか、資金繰り表や採算管理についてとか、そういう仕事直結していることをしっかりとやるべきだろうか。

今日砂に線を引く、と言う話

自己啓発などを読んで、今日から俺は!と思うことがあると思うが、それを表現した言葉が「今日、砂に線を引く」という言葉だ。

言い言葉だと思う。

砂地にたって、しゃがみ込み、足の後ろに漂着した木の枝で、線を引く。

昨日までの自分と決別する。

そういう言葉だ。

 

まぁ、砂に線を引く以上、そんなに深くも線を引けないし、そして砂に書いた線はすぐに消えてしまう。

風が吹かれ、波に流され、消えてしまう。

一度線が消えてしまえば、進んだのかも戻ったのかも、分からなくなってしまうだろう。

大事なのはきっと毎日、毎日、線を引き続けることなのではないか。

毎日、毎日。明日の自分を変えたいと思い続ける事。

それは習慣になって、そのうち心の力を不要にするものなのかどうか。それは分からないが。

毎日毎日、僕らは砂に線を引き続けなければならないのだと、思う。

 

My Name Is

人間とか社会とか、でかい主語を使う人間はすべからく教養のなさをひけらかしているのだなと。つくづく思う。

人間のことなんて分かりはしない。社会の事なんてのも分かりはしない。

せいぜいすこしだけでも分かると言えるのは、自分自身だ。

私のこと以外、何一つだって確かなものはない。

人間ってこう感じるとか、社会ってこんなものだとか。関係ないし、生意気だ。

俺は、私は、こういう存在なんだと。そういうことを言えるのが精一杯。

だから人は。。。

おっと、だから私は、私研究から逃げられない。私自身を研究することから逃げることは出来ないんだろう。いつまでたっても何歳になっても、自分探しを終えられない。自分が何者で、どういう人間でどこに向かって進んでどれだけままならない存在で、それが一体何なのか。そういったことから逃れられない。考えるのを辞めると脳みそが腐る。溶けていく。自分が自分を知ろうとするのを辞めたら、一秒でも生きていられない。

だから何度でも自分は何者なのかを、考える。そして書き続ける。きっと死ぬまでやらないといけない。

私を表すにはきっとこういう人間なんだと思う